(読んだ本)宮沢俊義「八月革命と国民主権主義」他五篇、長谷部恭男編、岩波文庫

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20世紀日本の憲法学を牽引した宮沢俊義(1899-1976)による論文集。前の4本(+貴族院での質疑)は「八月革命」説を唱えるなど新憲法の制定や主権に関するもので、最後の「国民代表の概念」は国民代表なる概念がイデオロギー的性格(政治的意味)をもつに過ぎないことを主張するものである。なお、編者・長谷部は宮沢の「孫弟子」(芦部門下)。
収録論稿は以下の6本(かっこ内は初出)。
- 八月革命と国民主権主義(1946)
- 日本国憲法生誕の法理(1955)
- 国民主権と天皇制とについてのおぼえがき─尾高教授の理論をめぐって(1948)
- ノモスの主権とソフィスト─ふたたび尾高教授の理論をめぐって(1949)
- 憲法改正案に関する政府に対する質疑(1948・8・26、貴族院本会議)
- 国民代表の概念(1934)
第一論稿「八月革命と国民主権主義」は、1946年3月6日政府発表の憲法改正草案要綱(テキスト)を受けて、八月革命説をはじめて打ち出した論文である(解説・242頁)。また、第二論稿「日本国憲法生誕の法理」では、第一論稿および「新憲法の概観」(国家学会編『新憲法の研究』10頁以下)の要約を掲載し、ここで主張した八月革命の理論に対する批判(河村又介・最高裁判事の「新憲法生誕の法理」でされたもの)への弁明を試みる。
第三・四の論稿「国民主権と天皇制についてのおぼえがき」「ノモスの主権とソフィスト」は、法哲学者・尾高朝雄が天皇制を国民主権的に基礎づけようと説いた「ノモス主権」論に対して、これが八月革命説に対する有効な理論的反論になっていないことを指摘する。第五論稿は貴族院での質疑で、ポツダム宣言を受諾することの意味、新旧憲法の根本建前の相違、国体論といった論点における宮沢の立場を示している。
第六論稿「国民代表の概念」は唯一、戦前に書かれたもので、この概念の成立過程と法律学における議論について検討しつつ、これが「純然たるイデオロギーであって、法科学的概念としては成立しえない」ことを主張する。
理論的背景とかの込み入った検討は解説(239頁以下〔長谷部〕)にあるし、別に詳しくもないのでしないが、個人的に感じたことを書いておくと、まず本書でされる主権をめぐる議論が、ところどころ最近の改憲論(?)に当てはまりそうだ*1、と思った。
こういう斬新な憲法草案がある。前文の長い厨二病的記述を乗り越えると、一応「日本国民は、……この憲法を制定する」と書いてある。ところで、宮沢は「国民が主権を有する」と直接いわない1946年の憲法改正草案要綱が「国民主権主義を真向から承認していることはきわめて明白」と考えたのだが、その根拠のひとつとして、前文の「日本国民ハ……茲ニ国民至高意思ヲ宣言シ……此ノ憲法ヲ制定確立シ」云々の表現に注目し、これを「日本国民が日本の政治の最終の権威者としてその意思によりこの憲法を制定するという意味であり、明らかに主権在民の原則を表している」とみた(9頁)。この考え方によれば、この奇妙な憲法草案においても、一応国民主権主義を承認しているとはいえそうである*2。
しかし、その1条1項は「日本は、天皇のしらす*3君民一体*4の国家である」と定める。さて、「君民一体」について宮沢は、明治憲法の神権主義の建前を検討する文脈で、次のようにいう(12頁)。*5
勿論君民一体とも、君民同治ともしばしばいわれた。……天皇はその統治にあたってあくまで民意を尊重すべきものとせられ、またその統治は多数国民の輔翼によってなされるへきものともせられた。しかし、これにもかかわらず、天皇の統治の権威そのものは民意に由来するとはせられなかった。天皇の統治の権威の根拠は民意とは全く関係のない神意に求められた。
かような根本建前─神権主義─が国民主権主義と全く性格を異にするものであることは明瞭である。
こういう経緯を見ると、国民主権主義を採用するという憲法が「君民一体」などと書くことは考えづらい*6。
この草案で特に話題となった(?)のは4条1項の「国は、主権を有し、独立して自ら決する権限を有する」との規定だろう。主権の概念は多義的であるが、たとえば、芦部信喜による憲法の標準的教科書(『憲法〔第八版〕』高橋和之補訂、岩波書店、39頁以下)では、以下のように整理されている。
……一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。
①はポツダム宣言8項、②は憲法前文第3段落「自国の主権」、③は憲法1条と前文第1段落「主権が国民に存する」がそれぞれ例として挙げられる。まあ立案者は②を指しているのだと言うが、議論(レスバ)の錯綜、というか噛み合わなさが、本書第三・四論稿で見られる宮沢と尾高との論争をほんの少し想起させる。
もう一つ、第六論稿「国民代表の概念」について、少し理解しづらいが自分なりに整理しておくと、ここでは法律学の下に「法の解釈」と「法の科学」という2つの作用をみる。前者は「既存の法規範の具体化のために新な法規範を定立する作用」(180頁)であり、「法の創設」という実践的な精神作用であるから、常に政治闘争的なものでなければならないという。後者は「法の認識」であり、これは理論的なもののみで構成されているから、非政治的、非闘争的でなければならないし、また「宣言的」な作用であることから、ここでの概念は現実と一致していなければならない、という。これを踏まえ、「法の科学」上の概念として位置づけられながら、実は現実と一致しないものを「イデオロギー」と呼び、「国民代表」の概念もまたこのイデオロギー的性格に終始しており「法の科学」上の概念として成立しない、と主張している。なお、ここでの「政治的」ということばには、長谷部によれば、まっとうな法律学とは無関係という、侮蔑的な意味合いがある、という。
本書全体としては、「国民代表の概念」は別として、(法学者の論文としては)比較的平易に*7書かれている印象を受けた。本書で宮沢が説く主権の所在に関する理解は、現代でも通用するものであるし、最近の*8「国民主権」をめぐるレスバを見ていても錯綜していてよくわからないという人は、憲法の教科書と本書を併せて読めば見通しが良くなるのでは、と思う。
(2025年6月刊行、268頁、910円+税)
*1:いちいち別の政治問題に結びつけるのも野暮な気はするが……
*2:実際、創憲プロジェクトのリーダーだったらしい弁護士(今年参院議員に初当選)は、前文のこの記述を根拠に本草案が国民主権を採用しているのだと「羽鳥慎一モーニングショー」で言っていたのを見た。
*3:立案者によれば「国民の実情を広く知って日本を治める意味の古語」らしい。なお『岩波古語辞典』には、「知る」(領有する、統治するなどの意味もあった)の尊敬語として、「お治めになる」の意味と記されている
*4:立案者によれば「天皇と国民が一体となって国を治める」という意味らしい
*5:本書71頁以下の「君民主権」のくだりも参考になる。
*6:「羽鳥慎一モーニングショー」の同じ回で、石川健治・東京大学教授が、「君民一体」を取り上げる際に大正デモクラシーの考え方だなどと指摘し、国民主権を採用しているとの立案者側の主張に疑問を呈しているのを見た。
*7:憲法の標準的な教科書を読んだことがあれば普通に読める、程度の意味
*8:もうピークは過ぎたかな?